昭和五十七年十月十四日 朝の御理解


御理解第八十二節 「大蔵省は人間の口を見たようなもので、その口に税金が収まらぬ時は四分板張った戸一枚で寝てはおれぬ、どこの太郎やら次郎やらわからぬようになろうぞ」


 お国が栄えて、国民がまた栄えると。国民だけが栄えて国が滅びるといったようなことではならぬ。そういう意味のことを教えておられると思いますね。それに、税金が収まらないと、もうそれこそ「どこの太郎やら次郎やら分からないようにもなろうぞ」とこう言っておられる。
 私は思いますね。お教会は発展する、お教会が繁昌する、そのお教会が繁盛する。そのお教会が発展繁昌と同時に、御信者が一緒に発展繁昌するようなおかげを頂いてもらいたい。また、頂きたいと思いますね。それにはやはり、お教会が発展繁昌しなきゃならんね。そこんところがね、大変難しいところで、まあ、打ち込んだ、言うなら信心をさしてもらうね。まあ言うならば、教会中心に御信心を進めて行かれる。
 それには、どういう信心がいるかというと、やはりどんな場合であっても、迷わず疑わずね。末の末までも教え伝えるような信心を、まず各自各自が頂くことだと思うですね。ですから、合楽で言われる、言うなら御理念の実験実証者としての実を、皆さんが上げておいでられなきゃならん。そこからね、教会と共に育つというか、教会と共に発展繁昌していくという、それであって本当の合楽教会、また合楽教会の信奉者ということが言えると思うです。沢山信者はおります。おかげを受けるということだけではなくてね。
 昨日、十三日会の時に、丁度、十三日会の御祈念が始まる前に、お届けがあったことを、皆さんに聞いて頂いたんですけれども。福岡の松岡さんという、もう椛目時代から、もうそれこそ、まあ、不思議、奇跡と、思われるようなおかげを頂き続けた方ですが、今日、当仁、福岡の唐人町で当仁うどんという食堂をして、繁盛しております。本当に、金光様の御信心を頂いてなかったら、どうなっておっただろうかと言ってもよい家庭だと思いますが。
 昨日、ここでお届けされます。昨日の朝、お夢を頂かれたと言うのです。というのは、その、『お風呂がはいったから入ってくれと言うから入ったところが、お湯が段々少なくなっていく。しかも、気づいたら、洋服のまま自分が入っておる』というようなお夢でしたというお届けでした。
 それで私、お風呂と言やあ、まあ極楽と。ですから、本当ににおかげを頂いて、勿体ない勿体ないというようなところは、私はこれは言うならね。善導寺、勿体島、椛目、常持というように、その、まあ、喜び、おかげの喜びに浸っておる時。だから、おかげの喜びに浸っておる時だけではなくて、もう一つ向こうに、その、合楽があるね。その合楽世界に住むためにはね。もう一つ信心を進めていかなければなりません。
 その合楽世界と、こう、願いを立てるところから、今日私が言おうとするね。合楽と共に育つね。例えば松岡さんとこの当仁うどんが繁昌しております。なら、合楽教会も繁昌しておる。共に、共に繁昌しておるのですけれども。そうではなくてね。何と言ったらいいでしょうかね。合楽の信心に、いよいよ基づいて、繁盛のおかげを頂かなければならないと言うわけですね。
 言うならば、ただ、「おかげを頂いております」だけではいけないように思う。繁昌のおかげを頂く。合楽教会のことを祈るとか、願いとか。合楽教会を中心にして、いわゆる教会中心の信心を頂いて、そして繁昌するというのでなからなければ、本当の、言うならば、末の末までも教え伝えられるということにはならない。
 お父さんの時には、非常におかげを頂いたお家じゃけども、息子さんになったら。というようなことになったんじゃいけません。末の末までも教え伝えられるおかげを頂くことのためには、先ずお国が栄えて国民が栄える。教会が栄えて信奉者のお家も栄えるというつながり。関連したものでなからなければ、末の末までも教え伝えられる働きにはなって来ないとこう思うね。
 昨日、そのう、御取次をさせて頂いておりましたら、「締め切り」と書いたのを、どこにか貼らんならんというふうにして、こう、白紙に「締め切り」と書いてあるところを頂いたんです。そいで、昨日、皆さんに、十三日会の時に聞いて頂いたんですけども。恐らく今、毎朝皆さんが一緒に願っておられる。総代さん方が御取次頂いておられる信徒会館の建設費の、御供の、もう、これは締め切りだなあと私は思いました。昨夜遅う、お初穂整理を致しましてから、まあ、何と昨日は、昨日はやっぱり本当に神願成就の日というのですが、もう恐らく、建設費の御供は昨日ぎりで、しめ切りでよかろうと思う位に沢山な御供を頂いております。
 神様の、本当に、お働きちわもう本当にすさまじい働きだなあとそのことを話しましたから。昨日何人かの信者さん方が、「いやあ、もう御大祭までにと思うとりましたから、まあそれまで待って頂きますように」と言う。それならまだ、貼っちゃないけんで、「なら、まだちょっと、貼るとば待ってもらわなきゃいかんですの」と言ってまあ申しましたことですけれどね。
 そういう方達の場合には、どういうことでしょう。合楽と共に育とうと育っておられる方達の真心の結集が御大祭前にね。信徒会館建設費の完納が出来るということになるですから。こういう行き方は、教会と共に育つ行き方。なら、そうして御供をしたから、それでつながったということじゃないですけれども、そこから、神様のいろんな、言うならば確かなものとしての、本当に教会と共に延びる。教会と共に発展して行く。いや、それは末の末までも教え伝えていけれるようなものを、合楽と交流が出来たからというところの、確かめを受けるような場合があると思うですね。
 昨日、御祈念がすんで、もう皆さんが帰られて後に、電話が掛かってきて、久留米の稲垣さんから、今帰り、善導寺の所で追突事故を起こしたと。石田先生の車、それから中に、誰かまた一人、そして稲垣さん親子が乗っておる車が、二三台追突したとこう。もう中は両方、それでもおかげを頂いて、まあ怪我人はございませんでしたけれども、とにかく御礼を申し上げて下さいと言って電話が掛かって。
 それからしばらくして、直ぐ、改めて御礼参拝がございました。して、そのことを私、神様に御取次させて頂きましたら、もうこれ以上はくずされまい。あの、字をくずすと言いますね。漢字を、こうくずして書く。これ以上はくずされまい。それでいて、もう、はっきり『長』という字。あの教会長の長と、長(おさ)という字。という字を、これ以上はくずされまいというような、くずした字を頂いたんですけれども。やはり、おかげを新たに頂くためには、古いものは、一辺壊さなきゃいけません。そして、新たなものを押し立てる。
 これは、皆さんも御承知と思うですけれども。まあ稲垣さんなんかは、もう御造営が始まると同時に、もうそれこそ、女ながらも一心発起しておられね。そして、そのことに、もう自分の仕事全部を打ち込んでおられるのですから。とても、普通では真似が出来ませんよねえ。
 そして、昨日は、娘さんが勤めに出ているのが、この頃から合楽のお教会の建設費が六億円かかった。それを、んなら、それを合楽で言われる、十人衆と言われる人達が、一人づつが御供をすると、一人が六千万づつ御供せんならんというあの御理解を頂いた時に、そのことを娘さんが聞いて、私もその十人衆の一人に加えて頂きたいと言って、昨日は、もうそれこそ親子の者が、その御供をするために、もう胸を弾ませて、もうそれを思うたら昨日は感動で、有難うて有難うてこたえんと。親子で御供のあって帰りがけなんですよ。
 そんなら、神様からいっちょ反対にごほうび下さるような働きが起こって来なきゃならんような感じですけれども。その、喜び一杯で帰っておられる途中で、そういう事故であった。まあ、おかげを頂いて、まあ怪我はございませんでしたけれどもと。何かそこに、こう、さっぱりせんものがあるけれども。御神意の深さ、一切神愛ということから、こう、分からしてもらうとね。結局くずすところはくずして、そして間違いなく、おさはおさとしての、長は長としての、はっきり頂けるね。この辺のところの信心が分かった時が、信心が分かったということじゃないでしょうかね。
 はあおかげ頂くよというご利益のとこだけが分かったじゃなくてね。それとは反対に、言うならばめぐりのお取り払いを頂くとでも言うでしょうか。本当のおかげを頂くことのために、言うならば本当に合楽と共に育つ。いよいよ合楽と共に繁盛していくためには、本当の信心を頂いておるか、頂いていないか。親子の者がもう本当に、「もう感動一杯の御供が出来た」とこう言っとるが、果たして感動いっぱいが、その感動がどの程度の喜びであるかと神様は試して見なさらなければならない。そういうようなものを神様が感じなさるような感じですね。
 これは、皆、言うならおかげを受けた人達は、過程において、通るところは通るということはそういうことです。あれ程信心しよんなさって、どうしてあげな不幸なことが続くだろうかと。その不幸なことという、そこに神愛があり、神愛を分かり、そこを頂き抜かせて頂く向こうに、私は合楽世界があるんだと。もうおかげ頂いて、もう本当極楽のようなおかげを頂いておりますと言うだけじゃなくて、その極楽世界のもう一つ向こうの合楽世界に住まわせてもよいと神様が思われる為にはね。言うならば、お試しに、そこを合格して初めて、合楽世界というのを感じますね。
 そこからね、教会と共に育とう。教会と共に発展繁昌のおかげを頂こう。お国が栄えて、言うならば国民が栄えるでなからなければ本当なことではないね。国民だけが栄えて、お国が滅びたらね、それこそ、どこの次郎やら太郎やら分からんようになってしまう。信心もぎりぎりのところ、合楽の信者、信奉者としておかげを頂くということはね。お教会と共に育てれるだけの信心を身につけることだ。
 それにはね、もう一切がやはりおかげと喜べれる信心を芯にして、土台にしてね。それを、子にも孫にも伝えていけれるだけの信心を頂いた時ね、初めて神様が安心して下さる、言うならば合楽世界に住むことが出来るのじゃないでしょうかね。
 昨日、松岡さんの例といい、稲垣さんのことといい、それこれを、こう取り混ぜて頂くのにね。私共が信心を進めるとか、育てて育つとか、高めるとかと言うことは、そういう一つの過程をですね。そういう、いつまでもね、言わば、お風呂の中で浸っておるような信心から、もう一つ言うならば、お教会中心の思いを起こさなきゃいけない。起こして、本気で、ならそういう信心になろうとすると、神様は本当な意味でお鍛えが始まるね。本当のおかげを頂こうとすると、神様が本当のおかげを下さろうとするという働きなんです。ただ、目先の、そのおかげだけじゃない、本当のおかげ。あの世にも持っていけ、この世にも残しておける、子にも孫にも伝えていけれる、これが本当の信心。なら、本当な信心を頂こうとしたら、本当な信心を下さろうとする神様の働きが起こってくるのも、また当然ですよね。どうぞ。